とあるスーパーマーケットのレジにて、前にいた50才くらいの女性が支払いのことで店員ともめてる。
「1,263円」みたいな端数の代金に対して、1,513円を払って、お釣りを切りのいい金額にしようとしたらしいんだけど、出したお金が間違っててお釣りが切りのいい数字にならなかった模様。
「だから、3円出したんだから、50円をください。」
「お客様、代金は◯◯円で、△△円お預かりしてますので・・・。」
「だから、●●円払ったでしょう!」
「いえ、お預かりしたのは△△円で・・・。」
そのスーパーのキャッシュレジスターは、上のトレーからお預かり金額を入れると下のトレーから自動的にお釣りが出てくるタイプで、店員がお金を数えているわけではない。
店員は2人がかりでその女性をなだめている。
「払ったお金はちゃんと確認してくれないと困るわ!」
女性は店員をなじっている。ほぼ確実に、お金を出し間違えたのは自分なのに。
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日本は好き。東京も大好き。すごい街だと思う。
だけど、こういう瞬間に、東京がイヤになる。高度にシステム化され洗練されたサービスが当たり前になって、ちょっとでも不具合になると途端に不寛容な態度を見せる人々。
その裏返しなのか、異常にへりくだり、丁寧すぎて変になった敬語を使う店員。
世界有数の過密な大都市には、それなりのルール、都市生活の知恵が必要なのは分かる。「エスカレーターに乗ったら急ぐ人のために右側を空ける」なんてのは合理的なマナーだと思うしさ。
でも、その高度なシステムに乗っかることに慣れ過ぎている人々の不寛容、キレやすさ、柔軟度のなさが垣間見える時、どうしようもなく残念な気持ちになるんです。
そんな時、日本に比べたら少々不便でも、私が今まで暮らしてきた途上国、日本人目線だと「遅れた国」の暮らしを懐かしく思うんですよね。思った通りにならないことも多くて、それはそれでストレスは溜まるんだけど、物事は人対人で片付けてた。
そのレジにいた女性にそんな途上国暮らしをさせたら、毎日文句ばっかりで血圧上がって早晩日本に送還とかいう結末になりそうですけどね。
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高度なシステムは、その裏にそれを支える多くの人々の献身がある。消費者が王様の国は、王様に傅く(かしづく)労働者の犠牲の上に成り立っている。
そして、消費者は、同時に労働者なのに。そこに思いが至らないのはなぜなのだろう。
日本は好き。東京も大好き。でも、そこにどっぷりとハマりすぎて、日本で、東京でしか暮らせない人になることは残念だし怖いことだと、レジでキレる女性を見て改めて思い知ったのでございます。